平成22年7月8日(木)



午前10時、おママから携帯に電話。
絶対そうだと、嫌な予感。

丁度取り込み中、しかしすぐさま折り返し電話する。

マ「お母さんの息が止まりそう・・・。」


ここはSのHPであり殆ど話題にしなかったが、
いつものババ、つまり私の母は、今年に入って間もなく寝たきりになっていた。


職場には既に事情を話してある。
すぐに帰宅させて頂く。

しかし帰路の車中、午前10時30分、息を引き取ったとおママからメール。
ついに、全てが終わった瞬間だった。


腎盂癌と認知症。
幸い後者はとても穏やかなそれで、かつ意識は最期まで保たれていた。
逆に本人の死への恐怖と肉体の痛みを、極限まで弱めてくれていたとさえ思える程だった。

Sも当初は反応が弱いババにどう対応してよいか戸惑っていた様子であったが、
最期の頃は普通に言葉をかけ、接することができるようになっていた。
ババも力の限り手を伸ばし、Sのほっぺを触ろうとしていた。
ババはSが大好きで大好きでたまらなかった。



母は終戦後、満州から小舟で引き上げてきたのだが、その船の中で兄弟全てを餓死で亡している。
自分が背負った悲しみを全て、そのまま我が子への愛情に変える力が母にはあった。
そして我が子の妻を愛し、何より孫を愛してくれていた。
いつも私達を信じ、かばい、守り続けてくれた。

「もういつであってもおかしくない」

そう宣告されてから約1ヶ月。
もはや水分の点滴だけになったにもかかわらず、
強靱な心臓は、その鼓動を止めようとはしなかった。

ジジと私とおママの3人交代で常に誰かが付き添った。
私は夜間、母のベッドの隣で横になる日々であった。


母の隣で私が寝た、いや母が私の隣で寝てくれたのはいつが最後であったか。
動けない母の隣に寝ることに、それでも初めは30余年ぶりの恥ずかしさがあった。
しかしその感情が、母に感謝する時を持てる幸せ・喜びに変わるのに、時間を要さなかった。


帰宅と同時に母の元へ。
唯一無二のその体は、まだ暖かさを保っていた。


最期を看取ったのはおママだったそう。
口を潤し、爪を切り、目薬を差し・・・。
全てを整え終わった頃、次第に息がとぎれとぎれになってきて、
急いで先生、看護師さん、そしてジジと私に電話したそうだ。


マ「今、先生に電話してるからね!今おパパに電話しているからね!みんなすぐ来るからね!」


呼びかける度に、ババは小さくうなずき、また呼吸が再開したそうである。

しかしついに命の全てを使い果たす時が来た。
骨と皮だけになった、我が、私達の母は、ついに眠るように静かに逝ったのだ。



死に際に居られなかったことやに悔いはない。
それまでの過ごし方が大切であったと確信しているからだ。

ほら、まるで息で胸が動いていると錯覚するくらい、穏やかで綺麗な顔である。
何度か我が目を擦った程だ。

しかし、もう動くことはない。
二度と言葉を交わすこともできない。
いつも温かかった母の手は、次第に冷たくなってゆくのだ。

今まで本当にありがとう。
どうか後のことは心配なく、安らかに。



訪問診療して下さった先生、看護師さんの皆さん、ケアマネージャーさん、ヘルパーさん。
皆様のおかげでここまで穏やかに過ごすことができました。
心より感謝致します。

そしてみんなお疲れさま!
本当にお疲れさま!!

全てが終わったんだと気が緩んだ瞬間、初めて熱い涙がこみ上げてきた。
死が忌まわしいという感情は全くない。
清々しささえ感じる母の最期であった。




Sが帰宅。

ババと対面。
昨日の七夕の「はやくよくなりますように」は叶わなかったが、
それ以上に安らかな眠りにつくことができた。

普段どうしてもババに手を取られ、そればかりでなく旅行を急遽キャンセルしたり、
ずうっとSが手薄になっていた。
よく我慢してきたと思う。

ババにはオマエがどれだけ癒しになっていたことか。
ババはSが近くに居るだけで満足だった。
ありがとう、S。

そしてもう少し。
あともう少しだけ我慢してくれ、S。


Sの姿が見えないと思ったら、1人で和室に移したババの元に行って来たそう。

S「ババのめ(目)あけた(開けた)けど、ち(閉)まらなかった・・・。」



・・・おいおいおい〜っ!!



Sなりにババの死を悲しんで、起きて欲しいと願っての事らしい。

でも、Sには全てを見せておこうと考えている。
死がわからなければ、生の奇跡もわからないから。

ババからそれを学ぶこと。
ババが与えてくれた最期の教えである。

でも、だからってもうババが寝てる布団に入ったり、枕を共にしたりするなよな、S。


体重22.8kg。

今日の写真はこれだけだ。



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