平成22年12月24日(金)


今日は小学校の終業式。

今期も奇跡の「1日もやすまなかったで賞」をもらってきた。





去年は元気な日の方が少なかった冬。
加えて誰よりマラソン月間を頑張っているようで、
Sは皆よりかなり先(距離)を走っているそうだ。

そして3学期も休まなければ表彰状が大きくなると聞いて、
Sは皆勤に燃えるのであった。


しかし・・・


昨日の晩から酷くなった咳がますます悪化。
夕食は咽せながら何とか食べたものの、そのまま布団に倒れてしまった。

う〜ん、ついに、ついに、か。

しかしS、昨晩もそうだが咳が止まらず寝られない。
加えてサンタさんが待ち遠しく、
物音する度にムックと起きあがる。

勘弁してくれ、それじゃあいつまでたっても、
サンタさん来れんじゃないか〜・・・。

とにかく明日、いつもの小児科クリニックに連れて行こう。

とにかく今晩、早く寝てくれ。




学校から持ち帰るわ作品集。
どうすんだ?こんなに・・・。

カルタ。
5・7・5のはず・・・。

結構笑える、問答無用でご覧頂こう。

真ん中の赤いの、テントウ虫だな。



「3度目の正直」である。

第2子をと考えてから、2回の流産を経験した。

1回目、順調に週齢を積み重ねていたはずが、

「心臓の音が聞こえないって言われた・・・。」

おママからの、いや医師から宣告されたその言葉は私達の虚を突いた。
頭上からずっぽりと暗闇に多い被られ、
しかし事の次第を理解するのに少し時間がかかった程である。

Sだけでさえ非常な苦労があったのに、まだ来るか・・・。


前ぶれはあった。
原因不明の出血があり、最後までその血腫は小さくなることがなかった。
結局そのまま大きくなる事は叶わなかった。


心身の傷が癒え、「次ダメだったらもう諦めよう」ラストチャンスと望んだ2回目。
しかしまたもや希望は早々にうち消されてしまった。
再び忌まわしい出血が起こり、小さな命の火は大海に消されてしまったのだ。

しかしおママは流産後の子宮収縮の痛みと出血に耐えながら、
早期に3度目を決めていたと記憶する。

この2回目があまりに早すぎたので、流産の確率10%の範囲、
つまり胎児何らか先天的な異常があった?
仕方のないそれであると思われること。
そして何よりまだやり残したこと(手段)がある、と・・・。

まず1回目、2回目の出血の原因となりうるであろう、ポリープ摘出だ。
そして通常は3回流産を繰り返した場合に受ける検査を、この2回目の段階で受けた。

検査の結果、血液検査で凝固因子の一種であるTATが異常に高かったが、その疑念も払拭した。
これで条件は整った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前回、前々回の妊娠とも、私は記録を残さなかった。
詳細な記録を取っていたSは、それが非常に有効となる事態になってしまった。
今度は記録を残さなかったら、これも予期していたかのように・・・。

さて今回は、どうするか。というか、右にも左にも、前にも後ろにも動けない。
ただただ、時間だけが過ぎていった。

もう一つ、初めから書けなかった理由がある。

おママは元々Sの3年の入院中に次の子をと望んでいた。
体力的な問題、染色体異常の確率の上昇・・・後になればなるほど不利であると。

それを毎日の通院や退院後のSの健康管理を考え、
もっと先にすべきだろうと提案したのは私であった。

2度の流産があったにせよ、引越やら何やらその都度その都度で忙しく、
それからつい延び延びになってしまった。
私の判断が年齢的な問題で連続する流産という苦しい状況に追い込ませてしまったのだとしたら・・・。

しかし、もし逆だったら、Sはここまで成長させることができただろうか。
それはわからない。
比較のしようがないので、正解がないのだ。

それ故ずっとこのような苦しい状況に陥っていた。
その記録を自ら残すのはあまりにも辛い。


そんな状況に陥っていた際、
ふとおママから、今回の記録は残さないのかと聞かれた。
Sの時と差がありすぎると。

あとは思うよりずっと簡単であった。
ならば、よし、と。
公開するかどうか等は後回しにして、とりあえず記録を取った。

ここから、遡り記載する。

平成23年4月30日 記





レディースクリニックに。

エコーでも、確認できた。

しかしあの黒い帯、
出血もまたおいでなすった。

心配は尽きない。

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